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今回はリックもルーク達も、うっかり忘れモノが多いみたいです。

quartz

*第八話・お尋ね者とたずね者2*






 静かな店内に、雌猫は軽やかな音を響かせた。
 徐々に弾かれる音は激しくなり、細やかな音の旋律が、聴く猫達の鼓膜を揺らす。
 鍵盤を弾く雌猫の手の力強さには、思わず身体を揺らしてしまいそうになる。



「あの猫、美猫だと思わないか? こっからはよく見えるなぁ」
 リックの言葉が、音色の世界から現実へとルークを引き戻した。
 ルークは小さくため息をつくと、
「ったく、リックは何見てるんだか」
 と少し呆れ顔で睨め付けた。

 エレファントピアノの演奏が終わると、お客達の間からワッと握手が湧き起こった。
「うわぁすごかったですねっ!
とっても迫力があって……私、初めてこのようなものを聴かせて頂きました」
 リスベルも感激した様子で、他の猫達と同じように拍手を送っていた。

『では、続きまして"スネイクサックス"による演奏で――』





 曲はそれから、次々と演奏された。
 どれもうっとりするほど良い音色や曲ばかりだった。
 演奏される曲それぞれに聴き入ってしまい、ルークは度々、口の側で止まったスプーンを思い出し口へと運んだ。

 話しかけてきたリスベルと談笑していたルークは、ふと、ロブスターの方を見た。
 感激する猫たち、リック、リスベルとは違い、ロブスターは曲を聴く事よりもケーキを食べる事に徹している――しかも、2皿目だ。
 ステージへ耳を傾けているところを見ると、全く聴いていないわけではないようだが――この店に"聞いて欲しい曲があった"と言っているわりには、食の方が進んでいる。

 ルークがあまりにもじっと見つめていたので、
「……?」
 ロブスターは視線をお皿からルークに移した。
 ルークは聞いてみることにした。
「ロブスター、トマトケーキ……2皿目?」
 率直には聞けなかった。
「……ああ、うまいからな」
 ロブスターはそう答えると、フォークを置き、トマトジュースを啜(すす)った。





『では、次の曲です。
次の曲は、このステージで最年少の少年"ウォード・オリス"による"ヴァイオリン・フォックス"の演奏です。
演奏曲は、道、"道(クゥツ)"です』

 司会がそう言うと、ステージの照明が全て消えた。
 そして二度ほど瞬きした頃に、パッとステージの真ん中だけに照明がついた。
 光が当てられたそこには、ルークより幼い感じのするヘーゼル色の目をした男の子が立っている。
「あいつが演奏するのか?
俺たちとそう年は変わらないぜ」
 リックが興味深そうに言うのを聞きながら、ルークはじっと男の子を見つめた。


 曲は始まろうとしている。
 男の子はヴァイオリンフォックスを顎で挟み固定させ、自分を落ち着かせるために――というよりも、手中の相棒に合図するかのように小さく囁いて、一呼吸した。
 薄茶色の目を伏せ、指先で弦を弾く。
 弓を定位置に構えると、そっと弾きだした。

 演奏が始まった瞬間、店にいた誰もが、その音色にクギヅケになった。
 背筋に何かぞくぞくとするものを感じる。
 ルークは飲もうとしたクリームソーダのグラスを掴んだまま、飲むのことを忘れ、耳を澄ました。

 今までに聴いた曲とは何か違う雰囲気を、その男の子は音色から醸(かも)し出していた。
 その音色は毛が逆立つ程美しく、心の奥底まで響くよう……。

 音色は、ある旅猫の物語を語っているように聞こえた。
 長い旅路をゆくその猫の半生を聴いているように感じる。
 明るい曲調の最中(さなか)に、切ない音が絡み合う。

 曲が後半に差し掛かるにつれ、音色は静謐(せいひつ)で優しいものへと変わっていった。
 けれどその優しい音色の中にも、切なさが残る。
 聞いていたルークの頭に、自然と、今までの旅路の出来事やアモン・ティル・ハーツと別れた時の映像が過(よ)ぎった。
 思い出の記憶を背景に、ウォードの奏でる音色が響く。

 店にいる全員の視線を浴びながら、男の子は優雅に、そして堂々と演奏をし続けた。
 そして、最後の音色を響かせると、動かしていた弓を止め、演奏を終えた。


 店内は静まりかえっていた。
 耳にはまだ、ヴァイオリンフォックスの音色が鮮やかに残っている。
 男の子はその店内をゆっくりと見回すと、会釈に似たお辞儀をした。
 そしてお客達をそっとうかがうような目で見回し、もう一度お辞儀をすると、ニコリと微笑んだ。
 その瞬間、お客達は我に返り、ドッと拍手を始めた。

「すごいですぅ」
 リスベルが拍手を始め、ルークは遅れて我に返った。
 まだぼうっとしたままの頭を動かし、辺りを見回すと、他の猫達と同じように手を叩く。
 側から強く叩かれる拍手の音がして、ルークは頭をそちらへ向けた。
 ロブスターがステージに向かって拍手を送っている。
「なんだか身震いがしたぜ」
 リックもそう言って、拍手をしていた。

 拍手は男の子がステージから去るまで、去った後でもまだ鳴り響いていた。
 司会猫が姿を現し、お客達を静め、それでやっと拍手の波は収まった。

「良い曲だったろう」
 ロブスターの声に、ルーク達は振り返った。
 振り返った時には、黒猫はトマトケーキを食べる続きを始めていた。



 それからルーク達は食事を再開した。
 お喋りと食事で楽しく時を過ごしていると、再びステージに照明が当てられ、手に紙切れを持った司会猫が現れた。

『お食事中、失礼いたします、お客様にお知らせがございます。
先ほど、ウォーノクスより知らせが参りました。
本日、噴水時計濃黄時刻、エクレア収容所で囚猫の脱走事件が発生いたしました。
囚猫"ボルシチ・アーサー"は、サンザリー広場の方へ逃走したとの事です。
ただ今エクレアポリスキャットにより捜索がなされております。
ウォーノクスによりますと、猫通りの多い場所は厳重な警戒体制がされているそうです。
脱走猫は裏通りへ逃走したとのことで、くれぐれも、猫気のない場所には赴かないようにと――脱走猫については、連絡が入り次第お伝えいたします。
お知らせは以上でございます』

「脱走事件だって……」
 ルークはあまり実感が湧かず、ぼんやりと聞いていた。
 周囲の猫達も、「大丈夫よ、エクレアのポリスキャットがいるじゃない」と言い合って、話と食事の続きを始めている。
「すぐ捕まるだろう。
それに、エクレアのポリスキャットって言やあ、屈強で有名なポリスキャット集団だぜ。
闘技場とごろつきの多いこの街を守ってる、強い猫で形成されてるって話だ」
 リックはそう言いながら、パフェに舌鼓を打っていた。
 ロブスターは、眉間にシワを寄せて何か考え事をしているようだった。
 怖い顔をして、トマトジュースを飲んでいる。
「どうかしたの、ロブスター」
 ルークの声に、黒猫は飲んでいたトマトジュースのグラスを置いて答えた。
「どこかで聞いた事がある名だと思ってな。
ボルシチ・アーサー、確かあれは、アモン・ティル・ハーツが取り押さえた男だったように思う。
もう何年も前の話だ」
「アモンが?」
「大男だったという噂だ」
 ロブスターの言葉に、リックは言った。
「何男だろうが、ポリスキャットが何とかするさ。
それに、俺たちは竜石使いだぜ」
 リックの言葉に、ルークは安堵(あんど)して「そうだね」と言った。



「噴水時計、今、何時でした?」
 隣のテーブルの猫が、店員に話しかけているのが聞こえた。
 少しの間その場を離れ、再び隣のテーブルへやって来た店員は、
「今は濃いピンク色にさしかかりつつあります」
 と答える。

「……濃いピンク」
 忙しく動かされていたリックの手と口が止まった。
「た、大変だっ!?」
 リックが突然、慌てた様子で立ち上がった。
 隣に座っていたリスベルが、驚いてむせている。
「リック、どうかしたの」
 ルークが尋ねると、リックは矢を背中に背負いながら言う。
「しまった、あぁすっかり忘れてたぜ。
噴水時計がもうピンク色をすぎてる、勝負の時間に遅れちまう!」

「まだケーキを食べ終えていないだろう」
 ロブスターがそう言うと、リックは再び席に着いた。
 そして、お皿のケーキを綺麗に口に押し込んだ。
 口を動かしながらお皿を見、残っていたケーキの一欠片も指で摘んで口に入れた。
「……食ぶったぼっ、じゃばっ俺ば行ってぐぶ」
 よく分からない言葉を言い残すと、リックは席を立った。
 そして器用にテーブルとテーブルの合間を抜けて、店の出口へと走りだした。 
「あ、待ってリック! 独りで行くのっ!?」
 ルークがそう言った時には、もうリックが店を出ていくところだった。

「仕方のないやつだ。
ケーキをもう一皿頼みたかったが」
 ロブスターはそう言いながら、ゆっくりと立ち上がった。
「私たちも、ついていくべきですね」
 リスベルも立ち上がった。


 ルーク、リスベル、ロブスターの三匹は、席を立ち、店の出口へと向かった。
 最初に出口に向かっていた黒猫が、いつの間にか支払いを済ましているのを見、ルークはお礼を言おうとしたが、
「行くぞ」
 と先に口を開かれて、言いそびれてしまった。
 店の出口扉を開け、外へと出た。
 入ってきた時と同じように、ベルが三匹の背に見送りの音を奏でていた。





 カランカランカラン

 店を出て幾間も立たず、再びカランカランとベルの音が、ルーク達の後ろで鳴った。
 強く扉が開かれる音と、こちらへと近づいてくる慌ただしい足音がする。

「待って下さいっ、待って下さい、ロブスターさん!」

 ロブスターを呼び止める声が後ろから聞こえた。
 ルーク達は立ち止まり、思わず振り返る。

「あれ?」
 振り返ると、そこにはどこかで見た顔――さっきまで"メアリーアの店"で演奏していた男の子が立っていた。
「はぁっはぁっ」
 男の子は必死に、息を静め、落ちつこうとしていた。
 苦しげに息をしているが、その顔はなぜだか嬉しそうに微笑んでいる。
 手にはヴァイオリンフォックスが握られていた。
「あなたは、さっき、このお店で演奏されていた方ですね?」
 リスベルが問うと、
「はい……僕、ウォード・オリス。
ロブスターさん、あなたに、もう一度会いたかった」
 とウォードは言い、ロブスターを見上げて笑顔を作った。
 それを聞き、ルークは驚いて黒猫を見た。
「ロブスター、この子と知り合いなのっ?」

 ややあって、
「……ああ」
 ロブスターは答え、男の子に「久しぶりだな」と言った。
 ウォードは黒猫に近づくと、上から下までよくよく観察して、何度も瞬きをした。
「ロブスターさん、変わられていませんね。
時々メアリーアでロブスターさんらしき方をお見かけしたのですが、僕がステージを終えて行ってみると、いつももういらっしゃらなくて。
……僕、ロブスターさんにもう一度会いたかった。
新しく作った曲、一番に聴いてもらいたかったから」
「曲を作ったのか」
 黒猫がそう言うと、ウォードは頷いた。
 真摯(しんし)な眼差しを黒猫に向け、
「僕の曲、聴いてもらえませんか」
 と問う。

「ロブスター、聴いてあげたら?」
 ルークは黒猫を見上げて言った。
 リスベルも、
「私も、ウォードさんの新しい曲、聴いてみたいです」
 とニコリと微笑んで言う。
 ロブスターは二匹の顔を見――そしてウォードの顔を見た。
「では、聴かせてもらうとしよう。
だが我々は、こう見えても忙しい旅猫(クォーツ)。
それを呼び止めただけの良い曲、聴かせてもらうぞ」
 ロブスターの言葉に、ウォードは、
「はいっ」
 と返事をし、ヘーゼル色の目を輝かせた。

 ウォードはヴァイオリンフォックスを顎で挟んだ。
 大きく息を吸って、そして吐く。
 ウォードのあどけない顔が嘘のように引き締まったのを見、ルークは少し驚いて喉を鳴らした。
 そしてステージ上でと同じように、ウォードは何事かをヴァイオリンフォックスに囁く。
 一度だけ黒猫の見、再びヴァイオリンフォックスに視線を落とすと、弓を動かし弾き始めた。


 透き通るようなその音色は、耳を澄ます猫達の心へ溶け込むように紡がれる。
 曇り空から垣間見えた青空へと、音は抜けていくように鳴り響く。

 側で聞いているせいなのか、率直に、音色が伝わってくる。
 音が震わせた空気が、ルークの肌にまで感じられる。

 時には大きく、時には小さく細やかに、ヴァイオリンフォックスは音を奏でる。
 聴く者を包み込んでくれるようなその曲調は、優しくもあり、強さも秘めていた。
 ルークはまた、メアリーアの店で聴いた時と同じ、言い知れぬ懐かしい気持ちに胸が一杯になっていた。
 ――どうしてウォードの音色は、懐かしくて切ない気分になるんだろう。

 曲は、長くどこまでも続く弧を思わせるような響きで締めくくられた。


 ウォードはそっと、ヴァイオリンフォックスを下げた。
 そして、ルーク達の顔を、伺うように見つめた。

 ルーク達の後ろで知らぬ間に出来ていた猫垣から、何匹かの猫が拍手をした。
 我知らず足を止めていた猫達は、再び通りを歩き出す。
 曲の余韻に浸っていたルークの耳に、徐々に街の活気が聞こえるようになった。

「良い曲だ」
 ロブスターが囁くように言った。
 それを聞いた途端、ウォードは薄茶色の目をまん丸く見開いた。
「ほ……本当、ですかっ!?」
 小さく叫んだウォードは、何度も瞬きをする。
 ロブスターは深々と頷いた。
 小さな手を握りしめ、喜んでいるウォードを見ながらリスベルが言う。
「とても美しい音色の曲でした。
こんなに側で聴かせて頂いて、贅沢な気分です」
 興奮気味だったルークは、少し声を上擦らせて言った。
「素敵な曲だったよ……ウォード」
 目が潤んでいるルークを見て、
「ありがとう、嬉しい」
 ウォードは微笑んだ。

「その曲、名前は何て言うの?」
 ルークがそう聞くと、ウォードは目を伏せ、どこか悩んでいるような表情になった。
「……実は、まだ、決まっていないんです。
なかなか、思いつかなくて。
自分の中で、今までで一番良く仕上がった曲だと思うんです。
だから、良い名前を付けようと思っているんだけど」

「"アビシニアン"……はどうだ」
 ロブスターが突然そう言った。

「アビシニアン」
 ウォードは目を大きく見開いた。
 リスベルが左手を右腕に手を添え、考え事をするようにして口を開く。
「アビシニアンは確か……その美しい声で猫たちに希望を与えた、女神の名前ですよね」
 ロブスターは静かに頷いた。

「アビシニアン……僕、この曲アビシニアンにしますっ。
嬉しい、ロブスターさん、ありがとう!」
 ウォードはそう言うと、黒猫に抱きついた。
 それに驚いていたロブスターだったが、笑顔で自分を見上げるウォードを見つめているうち、優しそうな顔つきになった。

「良い名前だね、アビシニアン」
 ルークが小さく言うと、隣でリスベルも微笑んで言った。
「ウォードさんの曲にぴったりです」


「ロブスター……ウォードとは、いつ知り合ったの?」
 ルークがそう尋ねると、
「四、五年ほど前、私がこの街に訪れた時だ。
ウォードが、路地裏で悪猫どもに囲まれていた」
 ロブスターは話ながら、ウォードを見下ろした。
「……僕、あの日、雨がパラパラと降ってきたから、慌ててたんだ。
ヴァイオリンフォックスが濡れてしまうから、雨が強くならないうちにと思って、急いで通りを走っていました。
そしたら、一匹の猫にぶつかってしまったんです。
その猫が大事そうに持っていたポップコーン、辺りにばらまいてしまって……とにかく、あの日の僕は全然ツイてなかった。
路地裏に連れて行かれて、もうダメだって思った時、どこからか黒猫さんが現れて助けてくださったんです。
その黒猫さんが、ロブスターさんでした」
 ウォードは一度口を閉ざし、黒猫を仰(あお)ぐように見て言った。
「あの時は、本当にありがとうございました。
ロブスターさん、そしてアモンさんが来て下さらなかったら、僕、どうなっていたか」
 静かに聞いていたルークだったが、「あれ、ちょっと待って」そう言って、ウォードの話を止めた。
 それらの言葉の中に、ルークは聞き捨てならない言葉を聞いたのだ。
「ウォード、今……"アモンさん"って言わなかった?」
「ええ、言いました」
 ウォードがそう答えると、ルークは大股で歩み寄った。
 そしてウォードの両肩に手をやって、じっと目を見て口を開く。
「まさか、アモンさんって、アモン・ティル・ハーツの事?」
「そ、そうですけれど……どうしたんですか、一体」
 ルークのただならぬ様子に、ウォードは小首を傾げ戸惑っていた。

 リスベルが言う。
「と、言う事は。
ロブスターさんも、アモン・ティル・ハーツに会った事があるのですね?」
 ルークは黒猫の方へ振り返った。
「ああ」
 素っ気ない返事をした黒猫をまじまじと見、ルークは大きく開きっぱなしの目を瞬かせた。
「ロブスターも会った事があるの!?」


 ルークのただならぬ様子に、ロブスターはアモンに会った経緯を簡単に話してくれた。


 ロブスターは、柄の悪そうな猫達に路地裏へ追い詰められるウォードをたまたま見かけ、その後を追った。ウォードを救うため、悪猫を懲らしめようとしていたロブスターだったが、少しばかり手荒だったようで――悪猫たちが、どうにかなりそうだった。
 この時の補足で、「気が立っていた」「手加減を忘れていただけだが」と呟いていたロブスターをウォードが引きつった笑顔で見ているのを見、ルークの毛がやや逆立った。

 そんな時、突然、アモン・ティル・ハーツが現れたそうだ。
 アモンは、悪猫どもに手を出すこともなく追い払い、ロブスターと怯えるウォードに、
『近くの店で雨宿りしないか? 雨がこれ以上、強くなる前にさ』
 と声をかけ、メアリーアの店へ連れて行ってくれたらしい。

 店につき、三匹は雨が止むまでしばらくそこにいた。
 ケーキを食べ終えた後、ウォードは何かお礼がしたいと思った。
 けれど何をすればいいかウォードには分からなかった。
 お礼が思い浮かばず俯いていたウォードを見て、アモンが、
『そのケースには何が入ってるんだい?』
 と、ヴァイオリンフォックスのケースを指さした。
 ウォードは、ケースからヴァイオリンフォックスを取り出した。
 二匹へ、これで曲を弾こうと思った――お礼の代わりに。

 曲を弾き終えると、突然、一匹の猫が彼らのテーブルの前に現れた。
 その猫はこの店のオーナーだった。
 彼はウォードに、
『是非、店の演奏者の一匹になってくれないか。
君のヴァイオリンフォックスの音色は実に素晴らしい。
私は聞き惚れてしまったよ』
 と言ったそうだ。

 そうして、ウォードはこの店で働くことになった。

 ロブスターが語る間、ウォードは照れくさそうに、耳を何度も撫でつけていた。
 ルークは、控えめなウォードを見ていて、思わず熱の入った口調で言った。
「聴いていてもわかるよ。
ウォードの弾く曲に音色、すごく心が惹きつけられる。
俺は、そう思った」
「……あ、ありがとうございます」
 耳を頭に伏せ、ウォードは頬を掻いた。

「私、それにアモン・ティル・ハーツはきっかけを作っただけだ。
機会をものにしたのは、ウォード、お前自身だ」
 そう言ったロブスターを少し驚いた様子で見、ウォードは頷いた。



 その後、ルーク達は、ウォードと話に花を咲かせていた。
 誰かのことを、すっかりと忘れて――

 リスベルは近くにあった"噴水時計"にふと目をやった。
 噴水は、濃い赤みを帯びていた。
 しばらくの間、それをじっと見つめていただけだったリスベルだが、両手を頬に押し当て、小さな悲鳴を上げた。
「ルーク、ロブスターさん、私達、何か忘れてません!」
 すぐに何のことだか思い出せなかった。
 ルークは出来事を頭の中で回想させ、あっと閃(ひらめ)くように言った。
「あっ、リックだ」

「すまないウォード、我々はもう行かなくては。
……仕様がないやつがいてな」
 ロブスターはそう言うと、ウォードの肩を優しく叩いた。

 ルーク、リスベル、ロブスターの三匹は、慌ててその場を去った。
「さようなら、ウォード」
「ウォードさん、また会いましょう!」



「ああ、リック大丈夫かな」
 走りながら、ルークは不安な表情で呟いた。
 隣で併走していたリスベルが、額をこつんと叩いて言う。
「すっかり忘れていました……私とした事が」
「やつの事だ、まだ生きてるだろう」
 前方を行く黒猫が、素っ気ない声音でそう言った。

 通りの分かれ道に差し掛かり、三匹は足を止めて街の案内板を見上げた。
「第二闘技場の側を通って、第一闘技場か」
 もうすでに、黒猫は動き出している。
 その後を追うように、二匹の子猫も走り出す。
 三匹は、リックがいるであろう第一闘技場へと向かった。





−第二闘技場前−

 闘技場の周りは、多くの猫達で喧騒(けんそう)としていた。
 ルーク達のいる通りの方から中の様子は窺(うかが)えなかったが、どうやらこれから、第二闘技場で試合が行われるようだ。
 ちらりと見えた闘技場の石造りの壁の向こうでも、猫達の騒ぐ声が聞こえる。
 周囲は試合を見に来た猫達でごった返していた。
 辺りには物騒な格好をした猫から、昼間から酒を呷(あお)って半目で歩いている猫もいる。
 猫達が密集しているせいか、熱気がすごく、ルークは少し舌を出して息をした。
 先を行く黒猫を追うが、猫混みに呑まれそうになる。
 背後で小さな悲鳴を聞いて、ルークははぐれそうだったリスベルの手をギュッと握って引っ張った。

 少し猫が減った場所で、黒猫は二匹を待っていた。
「私について歩け」
 そう言うと、ロブスターはルークとリスベルを自分の体に添わせた。

「闘技場って、初めてきたけど……想像以上に物騒な場所だね。
これじゃあ誰が戦うのか見に来てるのか、わからないよ」
 ルークは、側を通っていった、胸当てと短刀を腰に携えた猫を目で見送った。
 先ほどから不機嫌そうに顔を歪めていたリスベルは、はだけそうなローブを必死に押さえながら言った。
「早くここから出たいです」

「第一闘技場、どこにあるのかな……猫が多くてわからないよ」
 ルークは歩くので精一杯だった。
 闘技場の出入り口に近づいたのか、通りすぎる猫たちの流れが速い。
 ロブスターは背筋を伸ばして、辺りを見回しながら歩いていた。
「向こう側に見えるのがそうだろう」
 ルークは前方を見据える黒猫に、
「俺たちには見えないよ。
ここを通り抜けなきゃならない? ……リスベル、限界かもしれないよ」
 と言うと、今にも泣き出しそうなリスベルを振り返った。
「後ろに吸い込まれそうです」
 ルークより小さいリスベルは、体力が尽きかけており、見るからにしんどそうだった。
 足が縺(もつ)れ、歩くのも覚束(おぼつか)ない。
 いつの間にかローブのフードは後ろへ押しやられ、頬には誰かが食べていた外店のソーセージのトマトケチャップがついている。
 それを見やったロブスターは、ほんの一瞬き、足を止める。
 急に身体を屈(かが)めたかと思うと、ロブスターはリスベルをひょいと両手で抱え上げた。
「……リスベル、これで一安心だね」
 ルークがそう言うと、リスベルは丸くしていた目を黒猫へ向けた。
 黒猫はリスベルと目を合わせると、その白毛についていたトマトケチャップを舌で舐め取った。
「ありがとう、ございます」
 リスベルは数度目を瞬かせ、片言のようにそう言った。
 ロブスターは目的地の方へ顔を向けた。
「ルーク、私の後にしっかりついて来い」

 ロブスターはリスベルを抱え、足早に歩きだした。
 ルークもその後を、必死に、離れないよう小走りでついていった。





−第一闘技場前−

「何だか、静かだね」
 あまりの猫気のなさに、思わずルークはそう言った。
 先ほど通ってきた第二闘技場とは随分と違い、ここはとても静かだ。

 第一闘技場は、第二闘技場に比べ、建物自体が小さく見えた。
 あまり使われていないのだろう、全体的に少し埃(ほこり)っぽく感じる。
 第二闘技場同様、石造りの建物だった。
 ルークの二倍ほどの高さをした石壁が、カーブを描いて建てられている。
 おそらく、円形の闘技場なのだろう。

「あそこに誰かがいますよ。
……ロブスターさん、ありがとうございました」
 リスベルはそう言って、黒猫から降りた。

 第一闘技場の入り口の石門に、寄りかかるようにして猫が立っている。
 ルーク達三匹は、誰かを待っているように立つ、その猫の側へと向かった。

「あ、やっぱり」
 山高でツバが広い帽子、薄い灰に濃い灰色の渦模様、癖毛――リックに勝負を挑んだ、ポルトルだ。
 ルークの言葉に振り向いたポルトルは、帽子をとって「二度目まして」と挨拶をしてきた。
「リック・ゴードンは来ていないのか」
 ロブスターがそう言うと、ポルトルは不思議そうに三匹を見やって言った。
「あんた達と一緒じゃなかったのか? やつは、まだ来てねぇよ。
絶対来ると思ったのによ、なぁ、そう思っただろ?」
「うん」
 相づちを求められ、ルークは頷いた。
「リック、どこへ行ってしまったのでしょう」
「飛び出して出ていったのに」
 二匹の言葉を聞きながら、ロブスターが少し呆れた様子で言った。
「やつの事だ、場所を間違えたのかもな」

 ポルトルは石壁をドンと拳で叩くと、その場に座り込んだ。
「時間はトオに過ぎてやがる。
リック・ゴードン、一体どこへ行きやがった」
「リックは俺たちより先に急いでここへ向かったから、本当ならここに着いてるはずだ。
ロブスターの言うとおり、場所を間違えて迷ってるのかもしれない。
……俺、探してくるよ」
 ルークがそう言うと、リスベルも言った。
「私も行きます。
 ロブスターさんとポルトルさんは、ここで待っていて下さい」
 ルークとリスベルは、二匹をその場に残し、リックを探しに出かけた。


 二つの沈黙が、その場に訪れた。
 ロブスターとポルトルは、しばらくの間、無言でその場に止(とど)まっていた。
 座り込んでいたポルトルは、古い赤色の石畳を見つめていた目を、チラリと隣猫に向けた。
「ロブスター・ハウントだ」
 突如低い声が発せられ、ポルトルのお尻が、豆一粒分ほど浮き上がった。

 再び、黒猫は沈黙する。
 思わぬ黒猫の挨拶に、ポルトルは自分の胸を鷲掴み、深い鼻呼吸を繰り返した。
 心中の落ち着きを取り戻すと、ポルトルは戸惑いがちに隣猫を見やり、声を掛けた。
「おっ、お前、ロブスターって言うのか。
おいらはポルトル・ピアース、"ジャムダムル"出身だ」
 ポルトルがそう言うと、黒猫は軽く頷きながら「そうか」とだけ答えた。

 再び沈黙が訪れた。
 黒猫は軽く瞼を閉じ、瞑想でもしているかのようだった。
 猫気のない辺り。
 閑散(かんさん)とした建物や、いつから立っているのか知れない大きな樹のせいで、空柄注がれる日の光は極小。
 ただでさえ静かでひんやりとしていて、居心地が良くないこの場所は、長居するような場所ではない。
 緊張で、ポルトルは口の中がカラカラだった。
 ごくりと喉を鳴らし乾きを潤そうとしたが、唾さえも出ない。

 ポルトルは立ち上がった。
 黒猫はそっと目を開け、ポルトルの方を見る。
 そんな黒猫を、ポルトルは横目でちらちらと見ながら、
「まだ、時間かかりそうだしよ。
おいら、飲み物でも買ってこようかと思って。
……えっとロブスター、さん、も、何か、いるかい」
 と言葉を模索しながら聞いた。

 急にロブスターが動いたので、驚いたポルトルの毛が逆立った。
 黒猫は服に手を突っ込んで、「頼めるのか」と聞いてくる。
「ああ、いいとも」
 ポルトルがそう答えると、黒猫はポルトルの手に、ユニコーンの絵が描かれた青銅の"500キャットコイン"を置き、言った。
「トマトジュース」
「……とっ、トマトジュース」
 ポルトルは言葉を繰り返すと、500キャットコインをギュッと握りしめた。
「買って、来ますね」
 ぎこちない笑顔を作ると、ポルトルは賑やかな通りの方へと、すぐに駆けだしていった。





−闘技場近くの広場−

 第二闘技場と第一闘技場の間にある広場に、ルークとリスベルはいた。
「この近くに、リックいるといいですのに」
 リスベルは広場の猫達を見やりながら呟いていた。
 ここにいなければ、二匹は第二闘技場前を通って、リックを探さなければならないのだ。
 そうなるとまたあの猫混みの中に入らなくてはならない。
 二手に分かれて、広場を探すことにした。

 どこかで可愛い女の子に声なんて掛けていないか、木陰で昼寝していないか、リックを見つけるためルーク達は駆け回った。
 通りすぎる猫達の中に紛れていないかと、時々足を止めて振り返る。
 どこかに隠れているかもしれないと、家々が立ち並ぶ隙間や屑入れに至るまで、リックの姿を隈無(くまな)く探した。
「あぁ全くどこへ行ったんだろ、リックのやつ」
 ルークはそんな事を言いながら、よくよく目を凝らして探していたが、そのうち目が疲れてしょぼしょぼしてきた。
 そんな朧気(おぼろげ)な視界に、こちらへ駆けてくるリスベルの姿が映る。
「ルーク、リックいました?」
 ルークは頭を左右に振った。
「いなかったよ……第二闘技場より向こうにいるのかも」
 それの言葉を聞いて、リスベルは耳を頭に伏せる。
「私、またあそこを通るのは嫌ですぅ」
「仕方がないよ。
他に、通り道があれば別だけど」
 ルークがそう言うと、リスベルは辺りをぐるぐる見渡し始めた。
 しばらくの間、リスベルは身体を傾いだり、少し駆けていって遠くを眺めたりしていた。
 そうして、こちらへ戻ってきた時には、
「あそこに裏道がありました」
 とリスベルは指さして言った。

 リスベルはルークの腕を引き、裏道の方へ案内した。
 近づくまで分からなかったが、建物と建物のちょうど影になった部分に、猫二匹が並んで通れるほどの幅をした小道があった。
 緑の剥(は)げたような色合いの、石でてきた道だ。
「ね、ルーク、ここを通りましょう」
「でもこの道から、向こうの通りに出られるかわからないよ」
 ルークがそう言うと、「入ってみないとわかりませんよ」とリスベルは答え、ルークの腕をやや強引に引っ張った。
 猫気のない裏道を、二匹は歩き始めた。
「足場悪いな、石が飛び出てるよ。
この道……今はあんまり使われていないのかな」
 ルークは躓(つまず)きそうになりながらも、リスベルの歩調に合わせて裏道を歩き始めた。






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